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「自虐史観?」だれも自虐なんてしてませ~ん! [日本考]

先日、majyoさんが「史実、現実を直視できない人たち」
http://majyo1948.blog.so-net.ne.jp/2017-09-03
で取り上げていましたこの記事

【 東京都慰霊堂のある横網公園で、極右保守の女性団体の慰霊祭が9月1日に行われ、団体代表が
「私たちの先祖があたかも6000人の朝鮮人を虐殺したかのような
事がまかり通っている。この真実の石原町犠牲者慰霊祭を契機に、反日日本人の手による自虐史観を払拭せねばなりません。」
そして過去の南京大虐殺、従軍慰安婦問題にも触れている、捏造であるかのように。(以下省略)】

「自虐史観」という言葉が気になって仕方ありません。そこで、この言葉の沿革を調べて見ました、少々。Wikipediaには次のようにありました。

【沿革[編集]

詳細は「歴史教科書問題」を参照

秦郁彦は、1970年代に入った頃に、まず「東京裁判史観」という造語が語義がやや不分明のままに論壇で流通し始めたとしている。

冷戦後、日本において日中戦争・太平洋戦争などの歴史を再評価する流れが表れ、自由主義史観を提唱した教育学者の藤岡信勝などによって「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、主に近現代史における歴史認識について「自虐史観」であるとし、いわゆる戦後民主主義教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し、連合国側などの立場に偏った歴史観を日本国民に植え付け、その結果「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識が生まれたと批判した。

秦は「自虐史観」も「東京裁判批判」も語義は曖昧だとし、こうした主張の主力を占めるのは、渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や非専門家の論客であり、「歴史の専門家」は少ないと主張している。

2014年(平成26年)1月には自由民主党が運動方針案に「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」と明記した。】

この言葉は、1970年代以降、それまでの歴史観を批判する言葉として用いられるようになったのです。日本人にとって不利益になるような歴史認識に対して「その歴史観は間違っている。自虐的だ」と言うのです。
「日本民族の立場として、日本民族が選んだ国の歩みとして、全ての結果を評価しなければならない。歴史はどんな立場で見るかによって正邪が違うのだから、負けたことを前提に、勝者の側から見た歴史観を受け入れ、過去を懺悔しようとする態度は間違っている」という主張です。

確かに、過去の出来事をどう見るかは、見る人の立場によって異なります。つまり主観的にならざるを得ませんから、この主張は、正論のようにも見えます、一見。
見えるどころか、彼らはこの論理こそが正しいと信じ込み、日本軍が周囲や自国民になしたことの非人道性を指摘する歴史観は全て「自虐史観」として排斥しています。自分たちと違う歴史観に対して貼り付けるレッテルとして、この言葉を使っています。

しかし、この論理は本当に正しいのでしょうか? このように、この論理をナギナタのごとく大きく振り回して良いのでしょうか? 実はまったく良くありません、まったく不当なことです。

理由は簡単です、2つ挙げておきます。

一つは、脈絡のある歴史観と、歴史的事実の違いです。歴史観は、人それぞれです。しかし歴史的事実はひとつです。時の経過で真実が分かりにくくなっているとしても、立場で大きく変わるものではありません。証人がいて、証拠もあることです。
事実の認定においては、立場や考え方を持ち出すものではなく、証人や証拠に謙虚に向き合うものです。そうして確認された事実であろうと思われることをつなぎ合わせて、その因果関係などを解釈する段に至ると、主観が当然のごとく入った歴史観となるわけです。
立場や主観が歴史的事実を変えるようなことはあるまじきことです。そんな態度が見受けられるようだと「歴史修正主義」と言われることになります。

もう一つは、「自虐史観」の「自」です。何を自分だと思うかです。普通は自分個人です。交通事故などで、相手の言い分どおり、みな自分が悪かった、自分が償えばいいのだろうとする態度をとるなら、それは自虐的と言えるでしょう。しかし、国のなしたことは自分のなしたことと、日本中の人が思うでしょうか?
日本中どころか、大多数の人はそう思っていないのです。民主主義が不完全だった、と言うか、民主主義ではなく、藩閥政治から独裁的な軍国主義に移行していったのです。国政への参加意識は薄く、事実、国の決定に異論をはさめば粛清された時代です。
そんな状態でしたから、終戦を喜び、戦後に期待を寄せた人が多かったのが実情です。つまり自分の国がしたことでも、決して国民が意気投合してやったことではなく、不承不承の戦争継続だったのです。
ですから、戦時中になしたことに対しては、歴史認識以前に、当時から、同じ日本人の間で批判はすでにあるのです。

そういう見方を、自虐的という言葉で批判しようとすることは極めて傲慢であり稚拙でもあります。日本人である以上は、みながあの戦争を肯定しなければいけないと思い込んでいること自体が、すでに強烈な思想の強要なのです。

戦前が良かったと思う人がいても構いません、実際良かった面もないわけではないでしょう。しかしそれが当り前の日本人の姿で、そうでない人は自虐史観の持ち主だとするのは、理性的な人に対する冒涜であり、理性的になり得ない人の思い上がり以外の何物でもないでしょう。

自由民主党が2014年の運動方針案に「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」と明記したそうですが、どうしたんでしょうねぇ、天下の公党が、頭が回らなくて、思い上がりばかりが強くなっちゃったんですかねぇ。あの人気者の小池都知事さんも似たようなものなんですよねぇ。ちょっと考え直したらいかがですか・・・

本日のメッセージは以上です。おまけの写真も用意できませんでした。<(_ _)>

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