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「私はパレスチナが大好き」 [おしらせ]


三度パレスチナ関連です。
先日「フルートの演奏とガザの報告」を主催した会のメーリングリストから大変貴重な情報をいただきました。

「 パレスチナに住んだ事のある
小学生の作文の紹介がありました。
【ちきゅうラジオ】
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=0184_05_6803
9月2日午後8時配信終了ですが、よろしければ聴いてください。
26分過ぎから30分半までです。」 というものです。

さっそく聴いてみました。
【 パレスチナの思い出
イスラマバード日本語クラブ 小学4年 まつうら はな(文字は不明)
私はパキスタンに引っ越す前、パレスチナに住んでいました。パレスチナはイスラエルの占領地です。そのためイスラエルとパレスチナの衝突がよく起こります。あまり安全ではないのですが、私はパレスチナが大好きです。
パレスチナに住んでいた3年間、私は西岸地区ラマンダの現地校に通っていました。生徒はみんなパレスチナ人、私はたった1人の外国人でした。
パレスチナの子どもは喧嘩をいっぱいします。面白いのは叩かれたらもっと叩き返す、怒鳴られたらもっと怒鳴り返すという仕返しルールがあることです。これを子どもに教えるのは親と先生です。
パレスチナは数え切れないくらいの思い出が残っています。その中で忘れられないのは・・・】

先日の講演会に引き続き、感動しました。で、一気に文字起こしまでしてしまいました。でも、勝手に載せるわけにもいきませんので、さわりだけでやめます。2日午後8時まで聴取可能だそうですので、是非ご興味のある方はお聴きになってください。実にいいことが書かれています。

本日のメッセージは以上です。
以下はおまけの写真、どれも昨日の早朝です。
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問題を出します。上の3枚の朝顔の写真は、花の大きさがみな違います。直径10cm超の大輪、6~7cmの中輪、3cmの小輪、さあ3枚は大中小のどれでしょうか?(当たっても賞品はでません<(_ _)>)

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公園を掃除しているおじさんがいました。いつも、草むしりとか、ボランティアでやってくれています。今日は草掻きで掻いた草が乾いたので、泥を落としてポリ袋に入れているところでした。
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ポリ袋も自前だそうです。ありがたいことです。頭が下がります。

オナガがいました。
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本日は以上です。お付き合いいただきありがとうごさいました。

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中東の歴史とガザ地区の現状(金子由佳さん講演より) [たまには photo news]

金子由佳さんの講演の後半、ガザ地区に入る前に、パレスチナ問題の歴史的、政治的背景を概観しておきます、少し長くなりますが。(Wikipedia参照)

<オスマン帝国時代>
パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に居住するイスラム教徒とユダヤ教徒・キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)は共存関係を維持してきた。しかし19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であり、こうした入植を規制することはなかった。ドレフュス事件などの影響もあり、パレスチナに入植するユダヤ人の数は徐々に増え始めた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って参戦したオスマン帝国に対し、協商国側のイギリスが侵攻を開始した。

<イギリス委任統治時代>
オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。

入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与え、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。

第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。1947年2月7日、両派による武力衝突が頻発する中、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。

<国連、パレスチナ分割決議採択、イスラエル独立宣言>
イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。
この分割案は1937年のイギリス王立調査団案に比べはるかにユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。また、エルサレムとベツレヘムを中心とする国土中央部のわずかな地域(パレスチナ総面積の1%)は国連管理地区として中立地区となる予定であった。ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。

この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。イギリスの委任統治領政府はもはや無力なものとなり果て、パレスチナは事実上の内戦状態となっていった。

1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。

<第一次中東戦争>
1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、パレスチナの内戦はすぐさま国家間の戦争と化した。翌5月15日にはイスラエル独立に反対する周辺アラブ諸国(エジプト、サウジアラビア、イラク、トランスヨルダン、シリア、レバノン)がパレスチナへ進軍し、パレスチナ人側に立ってイスラエルと戦闘を始めた。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。

この戦争の結果は双方に不満を残すものだった。イスラエル側は念願の独立国家の建国に成功し、国連分割決議よりもはるかに広い領土を確保したものの、肝心のユダヤ教の聖地である嘆きの壁を含むエルサレム旧市街はイスラム教国であるトランスヨルダンの手にわたり、ユダヤ教徒は聖地への出入りが不可能になってしまった。
アラブ側もイスラエルの建国を許し、人口比に比べわずかな領土しか確保することができなかった。パレスチナにおいてアラブ側に残された土地は、エルサレム旧市街(東エルサレム)を含むヨルダン川西岸がトランスヨルダンに、地中海沿岸のガザ地区がエジプトに、それぞれ分割され、イスラエルに対する敵意を募らせた。
終戦後も両勢力の敵対は全く収まらず、以後21世紀に入っても続く対立の原型はこの時期に形作られた。また、この戦争によって主にイスラム系のパレスチナ人が多く国を追われ、大量のパレスチナ難民となって周辺各国へと流出した。

<第二次中東戦争>
1956年にエジプトで、イギリス・アメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセルは7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。

戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。

「スエズ動乱」「スエズ戦争」とも呼ばれるこの戦争においては、イスラエルは第一次中東戦争とは違い、非常に練度が高く優れた装備の軍によって純軍事的にはエジプトを圧倒したが、アメリカやソヴィエトなどの介入により外交的に敗北し、軍事力の誇示以外には何も得るところなく終わった。エジプトは純軍事的にはなすところなく敗北したものの、外交によって戦争目的であるスエズ運河国有化を果たすことに成功し、アラブ世界における威信を大幅に上げ、ナセルはアラブ世界の盟主としての地位を獲得した。この戦争によってもっとも損害を受けたのはイギリスであり、アメリカ・ソヴィエトの両大国の介入になすところなく撤退を余儀なくされたことは世界に盟主の交代を強く印象付け、イギリスの凋落は決定的なものとなった。以後、イギリスは中東地域において能動的な役割をほとんど果たさなくなり、1970年代初頭には残されていたペルシャ湾岸・オマーン・アデン・ハドラマウトの各保護領から撤退してこの地域から完全に手を引くこととなった。

<第三次中東戦争>
ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンのヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区とシナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領し、6月7日にはユダヤ教の聖地を含む東エルサレムを占領。開戦わずか4日後の6月8日にイスラエルとヨルダンおよびエジプトの停戦が成立し、シリアとも6月10日に停戦。なお、6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。

この戦争においてはイスラエルがその高い軍事能力を存分に発揮し、周辺各国全てを相手取って完勝した。イスラエルは旧パレスチナ地区のすべてを支配下に置いたばかりか、さらにシナイ半島とゴラン高原をも入手し、戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大した。しかし国連によってこの領土拡大は承認されず、国際的に公認されたイスラエルの領土は建国当初の領域のみとされた。日本の地図において、イスラエルの支配下にあるヨルダン川西岸やゴラン高原がそれぞれヨルダンおよびシリアの領土として表示されているのはこのためである。また、嘆きの壁を含むエルサレム旧市街(東エルサレム)の支配権もイスラエルが獲得し、エルサレムはすべてイスラエル領となったが、この併合も国際社会からは認められず、後の論争の火種となった。
この劇的な勝利により、イスラエルは中東紛争における圧倒的な優勢を獲得した。この優勢は現代にいたるまで揺らいでいない。

アラブ側においては全くの完敗であり、第一次中東戦争において確保していたパレスチナの残存部分をもイスラエルに占領され、パレスチナからアラブ側の領土は消滅した。ナセルの威信はこの戦争によって決定的に低下し、もともと足並みのそろっていないアラブ側の混乱がさらに顕著となった。第二次中東戦争においてエジプトが確保したスエズ運河も、運河の東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。このためヨーロッパ・アメリカ東海岸からアジアへと向かう船はすべて喜望峰回りを余儀なくされることとなり、世界経済に多大な影響を与えた。スエズ運河は、第四次中東戦争が終結し、1975年に再開されるまでの8年間閉鎖されたままだった。
アラブ側は、イスラエルの存在を認めず、敵対を続けるという一点においては一致しており、戦争終結後まもない8月末から9月にかけて行われたアラブ首脳会議において、アラブ連盟はイスラエルに対し「和平せず、交渉せず、承認せず」という原則を打ち出した。また、それまでアラブ側国家の支配のもとにあったヨルダン川西岸やガザ地区などのパレスチナ残存地域やゴラン高原、シナイ半島がイスラエルの手に落ちたことで、第一次中東戦争を上回る多数のパレスチナ難民が発生した。

<消耗戦争>
この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「消耗戦争」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1968年9月から1970年8月まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。消耗戦争はエジプト側がスエズ運河の西岸からイスラエル占領地側の軍に向けて砲撃を行い、イスラエル側は優勢な空軍力でエジプトに侵入し爆撃を行うといった形で行われた。

<第四次中東戦争>
1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。

初戦において後れを取ったイスラエルであるが、反撃にかかるのは迅速だった。ヨム・キプールは安息日であり、予備役は自宅で待機しているものがほとんどだったため、素早い召集が可能だったのである。10月9日より、イスラエル軍による反撃が開始され、まずシリアとの前線である北部戦線に集中的に兵力を投入する戦略がとられた。大量の増援を受けたイスラエル軍は、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。

この戦争においては、両者ともに痛み分けともいえる結果となった。イスラエルは最終的には盛り返し、軍事的には一応の勝利を得たものの、初戦における大敗北はそれまでのイスラエル軍無敗の伝説を覆すものであり、イスラエルの軍事的威信は大きく損なわれた。エジプトは純軍事的には最終的に敗北したものの、初戦において大勝利したことで軍事的威信を回復し、エジプト大統領アンワル・サダトの名声は非常に高まった。さらに緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、エジプトはイスラエルを交渉のテーブルにつかせることに成功。後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びついた。

なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルがスエズ運河を逆渡河し優勢になりはじめた10月16日、石油輸出国機構の中東6カ国が原油価格を70%引き上げ、翌10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界に経済混乱を引き起こした。第一次オイルショックである。これによって、もともと1970年代に入り原油価格への影響力を強めていた産油国はオイルメジャーから価格決定権を奪取し、価格カルテル化したOPECが原油価格に決定的な影響を与えるようになった。また、これによってそれまでよりはるかに多額の資金が産油国に流入するようになり、産油国の経済開発が進展することとなった。

<アラブの連合>
4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はまずアラブ連盟を結成し、イスラエルへの対抗姿勢を示すことでは一致した。また、イスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。

<中東和平への動き>
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独でキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。エジプトはアラブ連盟の盟主であったが、1979年にはこの和平を理由として連盟から追放されてしまい、1990年まで復帰を許されなかった。サダトはイスラエル首相のメナヘム・ベギンとともに1978年度のノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラクが2011年のエジプト革命で政権を失うまで継続された。

1991年に中東和平会議が開かれ、1992年6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年、アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党のビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸とガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。

1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。

1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が開かれた。


<遠のく和平への道>
1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。

9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。

1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。

2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロをエスカレートさせた。2002年にサウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王はイスラエルの占領地撤退と引き換えに全アラブ諸国は国交正常化するという前代未聞のアラブ和平イニシアティブを提唱してアラブ連盟に全会一致で可決させ、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」と絶賛した。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと和平を結び、国交を正常化する」としてアラブ和平イニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した。一方、ガザ政府のハマースはイスラエルを承認することになることから、アラブ和平イニシアティブに否定的であった。

2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。

2008年12月27日、ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年現在に至るまで人道危機を引き起している。

2011年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア騒乱における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。

2013年、エジプトのムルシー政権が軍部のクーデターにより倒されると、再び親イスラエル路線に回帰した同国にてガザへの密輸規制が強化され、結果弱体化したハマースが主流派ファタハに接近、パレスチナ挙国一致政権が発足した。これに反発したイスラエルが翌年に再度ガザに侵攻した。
(Wikipediaさん、ありがとうございました。若干編集させていただきました)

こんな歴史的、政治的背景を持つガザの最新情報を金子由佳さんが伝えてくれました。それを私がまた伝えします、当人の許可を得て、投影画面の写真で。

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仮説住宅の劣悪な設備
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子どもの描く絵
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日本の震災に同情を寄せる子どもたち
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お別れ映像がピンボケしちゃいました。
秩父にお住まいのユダヤ人、ダニーさんがお見えになっていて登壇。
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「戦争は絶対しちゃダメ、良い人・普通の人を悪い人に、鬼に変えちゃうから。戦争は絶対にしちゃいけません」

ナチスの迫害に遭ったユダヤ人が、パレスチナでは加害者になっています。故国を持たないでいじめられていた民が、念願の自分の国を持とうと必死になって、先住民を迫害しています。一度暴力を用いると、憎しみが憎しみを産み、残虐行為の連鎖が始まります。罪のない子供が可哀想です。
民族差別はやめて、平等に、互いを尊重して暮らすしかないでしょう。
「他人の不幸は痛くも痒くもない」ではなくて、不幸な人の身にもなって、人の不幸をできるだけ減らす、そんな価値観を共有しようではありませんか。

みなさんのご感想はいかがですか?

金子由佳さんの、虎穴に入る勇気と、重いメッセージを背負ってなおへこたれない足腰に、改めて敬意を表したいと思います。

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「フルートの演奏とパレスチナの報告」フォトレポート [たまには photo news]

8月最後の日曜日、行ってきました、以前お知らせしましたこの講演会。
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会場の雰囲気です。
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エアコンの利きが悪くて暑かったこと。(施設の関係者の方、会場として使えませんよ~)
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まずは主催者のご挨拶
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続いてフルート演奏です。「平和を願う音楽祭」でも演奏していただいた、佐藤さん、茂木さんの息の合ったコンビです。
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『サトウキビ畑』、『海の声』、『芭蕉布』、『花~すべての人の心に花を~』、『広い河の岸辺』、『時代』など、幅広い和音で歯切れの良いギター伴奏に乗って流れ来る、柔らかで麗しいフルートのしらべを、暑さを忘れて堪能しました。

聴く方はそうでしたが、演奏された加奈世さんは
「暑くてどんどん音が上がっていくので困りましたが、大丈夫でしたか?」と心配されていました。
「そうだったのですか、まったく気がつきませでした」
「暑くて息が全然続かなかったんですけど…途中で少し菅を抜いて音を下げたりしてました」
ご苦労されたようです。
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おふたり、コンビを組んで13年だそうです。トークも面白いのですが、マイクのない茂木さんのお声が聞こえなくて、楽しい雰囲気しかわかりませんでした。
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『上を向いて歩こう』をみなで口ずさみながら、第一部は終了しました。
こんど演奏するのは、10月9日10時、「平和のための埼玉北部戦争展」だそうです。あとでポスターを載せますね。


5分の休憩を挟んで、金子由佳さん登場です。
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ご紹介します、パンフレットから。
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この方、実はいつもコメントをくれるSUN FIRSTさんの姪御さんなんですよ。
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以下プロジェクターで映し出された画面の写真を列挙します。
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家を追われたものの短期間で帰れるものと思って、家のカギを持っている人も多いのだそうです。
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以上がヨルダン川西岸地区の現状、
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ガザ地区の問題は、機会を改めます。

福島の人は、原発事故に故郷を追われました。これも悲惨ですが、パレスチナの人は国際政治の皺寄せとなって、悲惨な思いをしています。現地を何度も訪れ、生活を共にし、実態を自身の眼でご覧になって報告をしてくださっている由佳さんに、感動しました。

本日はこれまでとします。


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地殻変動が起こりつつあるのか? [日本考]

今日は関東はあまり温度は上がらないだろうという予報に反して暑い1日でした。 夕方少しばかり時間ができましたので、できたら更新します。多くは書けません。 話題は、先日、近所に住む友人が、下の朝日新聞の記事の切り抜きとネットで拡散され話題になったという灘中校長の文章のプリントしたものを持ってきてくれました。その件です。 記事は一週間前で、ネットで話題になったことを紹介したものですから、ご存知の方も多いかと思います。

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かつては、歴史教科書を見直す動きが出てきて、それまでのものは自虐的な歴史観だとして、新しい視点の教科書が作られ、学校が採用すると話題になったものですが、今や、それが逆転してしまっていることが、この騒動でわかりました。慰安婦問題の記述のある教科書を採択した中学校が議員から問い合わせを受けたり、抗議のはがきが数百枚届いたりしたのだそうです。

こうした運動を推進する思想的背景は日本会議に象徴されるグループの人たちの考え方です。菅野完さんの書かれた『日本会議の研究』を今読んで研究させてもらっているところですが、この人たちの考えは、まさに戦前礼賛です。戦争に負けた結果、戦前に目指していたものが頓挫し、進行方向が戦勝国によって90°(180°?)曲げられてしまったという認識です。

憲法も、大日本帝国憲法が日本の憲法で、今の日本国憲法は押し付けられた仮もので、真の憲法とは認めていないようです。ですから改憲というより、反憲が彼らの本意のようです。つまり現憲法に従う気がなく、無視して、従来の、戦前の政策を実行すればよいという考えのようです。

アベ政権の憲法無視の閣議決定、国会運営はまさにそれです。 アベ総理の独裁の後ろには、いつの間にか支持層を広げたこうした戦前を礼賛する人たちの思想背景があったのです。 しかし、それで大陸に進出し、中国やイギリス、オランダなどと戦い、太平洋でアメリカと戦い、勝てる見込みがなくなっても「いまに神風が吹く」と特攻隊を組織し、国土が空爆を受けても「一億玉砕、本土決戦」と戦争をやめなかったあの日本の政治に反省がないとは?、あの続きをやろうとは?、これいかに? というしかありません。

もう一度冷静に考え直しましょう、過去が全部悪かったわけではないし、全部良かったわけでもないのです。 尻切れですが今日はこの辺で。

撮れました、ツクツク法師、やっと一匹。
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後は公園のお花です。名前は知りません。<(_ _)>
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加計の不審はぬぐえていない [たまには photo news]

高校野球は埼玉代表が初優勝。決勝戦はあの中村君を擁する広陵高校との間で行われましたが、なんと横綱相撲で勝ってしまいました。
監督の人格が素晴らしいというSUNFIRSTさんから朝日新聞の記事が届きましたので、掲載させていただきます。
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続いて久しぶりにテレビ画面の切り抜きです。今朝のテレ朝、モーニングショーから。
玉川さんが「そもそも総研」で国家戦略特区の決定は納得がいかないという研究発表をしていました。
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全く同感です。あの問題は、決定の経緯が少しも検証・解明されていません。閣僚を数人替えれば収まるという問題ではありません。

それから、都民ファーストの議員の口がトップの意向で封じられているという問題も上げていました。
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政治家が自分の考えが言えないとはなんとおかしな政党でしょうか、また社会でしょうか!
玉川さん、怒っています。
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玉川さんはたまに可笑しなことも言いますが、一途なところがいいですね。

以下は先日の白鷺の写真の続きです。場所は、かつての大里郡大里村、現在は熊谷市の一画です。ナードサークに倣えばムーサシーノの田園風景です。
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日照も温度も足りたようですね、関東は、どうにか。

反対方向の景色
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また元の方向です。台の上に乗りましたね。
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赤トンボ、被写体が小さくてピントがうまく合ってくれませんでした。
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シオカラトンボ
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シジミ蝶でしょうか
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以上です。お付き合いいただきありがとうごさいました。

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World Newsに一言 [時事問題]

今、世界で話題になっていることといえば、アメリカの白人至上主義を巡る騒動とトランプ大統領の資質の問題、それからヨーロッパで頻発しているIS関連のテロの問題でしょう。もう一つ、北朝鮮問題。

まず、白人至上主義ですが、人種や民族、性別や国籍などによる差別は、排他的利己主義によるもので、人類が長い歴史をとおして、次第に克服してきたことではないでしょうか。何をいまさら・・・
こういうことを言い出すと、人種間や民族間で争いが絶えません。同じ地球に人として生まれたもの同士、同胞として尊重し合い、憎しみを持たないことが肝要です。

そんなことは言うまでもないことですが、一国の大統領が、差別主義者の支持もあって当選したというのですから、呆れたことです。

アメリカ社会は今混乱していますが、しかし遠からず、差別は容認しないという良識に立ち返ることでしょう。一国の大統領が間違った意見の持ち主でも、社会にちゃんと修正能力があることを、じっくり見させてもらって、我々が見習う手本にできるのではないかと期待しています。

次はテロの問題です。
テロリストは自爆も厭いませんから、死を覚悟しての犯行です。それだけ、やることの正しさに確信を持ってのことでしょうが、主義主張にいかに正当性があっても、関わりのない人を犠牲にするような方法に正義はありません。

地球に棲む人間全部に関わりのある問題で関わりのない人はいないという理屈もありましょうが、人間の能力では、森羅万象すべてに関わりを持ち、正しく判断するなどということは、無理です、できません。
したがって、日々の生活をそれぞれに味わっている市民が、突然、言われなく、生きる権利を奪われることになります。理不尽以外の何ものでもありません。

体制への抗議は忍耐強く非暴力でやるしかないのではないでしょうか。少なくとも無関係の人を無差別に巻き込むものではありませんよ。

gonntan 和尚のブログの序文には
【 人を生き返らせる力を持たない私たちに どうして人の命を奪うことができるだろう 】とあります。まさにこれですよ。自分が命の代償を払っても、他人の命を奪ってはいけないのです。やってはいけないことなのです。謙虚に生きましょう。

北朝鮮の問題です。あの国は休むことなく軍事力を強化し続け、今日に至りました。隣国にとっては由々しき問題です。あの国がミサイルを飛ばしたり、核実験をするたびに挑発、挑発と言ってきましたが、あの国は周囲を挑発していたのではなく、ひたすら攻め込まれないための抑止力を誇示していただけかもしれない。
何しろ国境は休戦状態の軍事境界線で、その向こうでは、毎年二度も自分たちを仮想敵国として演習をしているのだから気が気ではないでしょう。
そうしたことの繰り返しで、今日ここまで危険な状況に至ってしまった。

いつまでも同じやり方をしないで、ここは冷静に、例えば演習をしばらく控えるなど、今までと違ったやり方をしながら、ことの経過をよくよく振り返って、打開策を考える必要があるのではないでしょうか。

以上が今日のメッセイジです。ちょっと平凡だった?

おまけの写真・・・

また咲きましたサギ草
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なんと今日は実物にも逢っちゃいました
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ではまた!
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インパール作戦に思う [日本考]


インパール作戦(1944年3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。補給線を軽視した作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。Wikipediaより)では何万という兵に言語に絶する悲惨な死に方をさせることになりました。同胞の民の命を、今生の体験を、一顧だにせず、ただ国家の戦略の駒として無惨にも使い果たしました。

このころの作戦本部の、あるいは指揮官の頭にあるのは、人の持つ精神的能力を知・情・意に分けるなら、そのうちの、勝とうとする意欲だけだったと言えると思います。
人に備わった知と情が麻痺していたと言えるのではないでしょうか。
勝つために知が働いていない。生ある生身の人間に対して情が働いていない。

「意」だけでは良い結果が得られないばかりか、人として大変間違った行いをしてしまうという、この作戦だけでなく、第二次大戦を遂行した大本営のやり方は、そういう悪しき例ではなかったかと思います。

731部隊の人体実験もそうです。化学的知見を動員していますから、知は働いているとしても、人としての情が、まったく麻痺してしまっています。
治安維持法で、共産主義者や文化人を弾圧しましたが、これは、日本社会の知と情を機能させなくしたものです。

そんな社会は、戦争に勝つという目的すら達成できないのです。
そればかりか、「一億玉砕」などと言えば、相手国からも、日本人=戦う兵、と見なされ、東京大空襲をはじめ、市街地が無差別に攻撃されることにもなってしまうのです。広島、長崎への原爆投下の口実にもなってしまったのです。

もちろんそういう判断の下、無差別に爆撃をした米側にも問題がありますが、一億の人間の有する精神力の知と情が、麻痺状態となり、戦争に勝つことのみを願う意志の塊となってしまうということは、豊かであるはずの人間の精神を自ら放棄して、鬼畜となってしまうという愚かなことなのです。

そんな方向に社会を向かわせてはなりません。

以上が本日のメッセージです。

本日のおまけの写真は、久しぶりに顔を出したお日様にカメラを向けてみました。ただ白くなっちゃったので、サンバイザーを通して再挑戦しました。ファインダーは覗きませんでしたよ。

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政治改革を急がねば、政治後進国日本! [日本考]

 8月6日、広島原爆の日に「統合失調症、日本」という記事を書きました。唯一の被爆国で、毎年、核兵器の非人間性を世界に訴える式典を行っている日本なのに、その政府は、国連でようやく採択された「核兵器禁止条約」に参加していないというちぐはぐさ、足並みの乱れを指摘したものです。

 なんでこんなにバラバラなのだろう、まとまりがないのだろうと思うのです。ばらばらと言えば、あれだけの被害者を内外に産み出した悲惨な戦争の評価も、まとまっているようで、実はちっともまとまっていないのです。これについては、後日改めて書くことにします。
 なぜまとまらないか、なぜ、まとまらないまま世界に情報を発信して平気なのか、そこが問題だと思うのです。

 その答えの一つとして、6日の記事では「島国根性」を挙げました。島の中で支配的地位に着くことが人生のテーマになってしまっていて、外の世界に対して自分たちがどういう存在なのかを考えることが、二の次、三の次になってしまっているのではないかと書きました。日本は敗戦国で戦勝国が厳然と存在しますから、そこに取り入ることが支配的地位に着く手っ取り早い方法です。そういう処世術で人生を渡る人にとっては、多くの国民の願いなど汲み取る必要がないのです。「非核三原則」とか言って、適当に納得させておけばいいのです。それも、最近は核の傘に入っていることを明言し、それ故、禁止条約には参加できないという態度になりました。

 いい加減な人たちです。自分たちが日本を代表する政府で、日本国民の意志を取りまとめて政策を立案し施行しているという認識がまったくないのです。
 あるのは、自分たちはこの島の支配者で、選挙で支持を取り付けるために玉虫色のことをいろいろ言うが、議員になって議会の過半数を取った暁には、自分たちの思うことをバシバシ法制化して、国民を従わせればよいという思い上がった考えだけなのです。

 自民党の国会対策関係の人たちを見ればよくわかります。いかに自分たちに都合よく議会を運営し、都合のよい結果を早く出すかということしか考えていません。もう、見るからにそういう顔をし、そういう発言をしています。野党や国民の疑念など、取るに足りないことで、相手にしていないという風情です。これでは、政府のやることは、いつでもカタバイ飛行です。

 議員があれではなあ、弱ったものだと思うのです。そう言えば、日本の政治家というのは、みな、ああいう素養を持っている人たちではないか、つまり、自分や、自分の仲間に都合のよい結果を導き出す達人ではないかと思うのです。そういう人たちの中で、もまれもまれて国会議員にまで上り詰めるのですから、みな、要領のよい人たちです。
 要領がよいとは、よい結果が出たときには自分の手柄を強調し、負の結果が出たときには、その責任はなるべく負わないようにする、そういう才能に長けている人たちです。そんな人たちが集まって政治をしている、これでは日本国はよくならない。それはあまりにも目に見えています。

 困ったものです。どうすりゃいいのさ、思案橋・・・

 今朝、ファルコ84さんが8月12日に書いた「デンマークの政治を見習いたい」という記事を遅まきながら拝読したのです。
 http://falco84.blog.so-net.ne.jp/2017-08-12
 するとそこには、
【 デンマークの国会議員の年収は国民平均所得の750万円で大卒よりも低いそうだ。
地方議員に至っては無給のボランティア!
つまり政治で甘い汁を吸おうとする金儲けのための政治家などはいないということ。
対して日本の議員は3200万円、この例にならえば450万になり、そうすれば庶民の気持ちも分かるようになるはず。
デンマークの選挙制度は政党に投票する比例代表選挙のみ・・・ 】 とあったのです。

 目から鱗です。日本は政治家、つまり議員の報酬が多過ぎるのです。多いから要領で議員になろうとする。我欲が強く要領のよい者の働き場が政治の世界ということになります。これではよい政治は期待できません。
 一方、デンマークでは、人のために、デンマークのために、世界の平和と発展のためにアイディアを持つ人が議員を目指す、あるいは人の推薦を受ける。そういう人たちが政治の世界で活躍する。

 政治の世界から何が産み出されるか、両者の間には雲泥の差があるでしょう。日本は政治制度が悪すぎませんか、遅れすぎていませんか?制度を変えないと、いつまでも無益な国会質疑が続き、国民の意思を反映しない法律ができ、場合によると憲法まででき、与党一派の都合のよい政策ばかりが実施されかねません。

 政策の立案や調査・研究などの政治活動には、平均所得以上の費用がかかるのは明らかですが、この点は、政党交付金などの公的資金が、使途を限定したうえで利用できる制度があればクリアできるでしょう。

 政治改革の必要性を痛感しました。

 本日のメッセージは以上です。

 以下は昨日の灯篭流し。小雨にも負けず行われましたので、市内を流れる星川を、川下から灯篭の流し元まで上ってみました。

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 これは川下を望んでいます。流した灯篭について歩いて行っています。

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 いよいよ流し元です。
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 トリミングします、風情があるので。
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 慰霊の設備が調えてありました。
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 72年前の8月14日から15日にかけて空襲を受け、熱さのあまり川に入った人がたくさんいたそうです。そこに焼夷弾が落ち、油が広がり、火の海となって多数の犠牲者が出てしまいました。お線香を上げて、謹んでご冥福をお祈りしました。

 終りまでお付き合いいただきありがとうございました。
 ファルコ84さん、よい記事をありがとうございました。

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「熊谷空襲を忘れない市民の会」ラジオに出演 [おしらせ]


 ここ数日子守りの用事が少なくて時間がありました。昨日は別タイトルのブログ記事を二つ、今日も一つ書きました。これは今日の二つ目です。

 今日のニュースは、地元の「熊谷空襲を忘れない市民の会」の代表が、今日の午後4時に文化放送に生出演されたことです。私もカーラジオでしっかり聴くことができました。

 番組は終戦記念日の特集で、終戦間際に空襲を受けた小田原などいくつかの都市の一つとして熊谷が取り上げられ、同会の代表の米田さんがインタビューを受けるという形で約10分お話をされました。
 熊谷は、1945年の8月14日の深夜から翌15日の1時過ぎまで七十数分にわたりB29の爆撃を受け市街地は焦土と化したのでした。米田さんは、「亡くなった人が266名、負傷者が15390名、市内を流れる星川で多くの犠牲者が出た」ことなどを美声で淀みなく説明されていました。(人数は記憶しそびれましたので、Wikipedia に依ります)

 米田さんは御年72歳、女性の歳は普通はわざわざ言わないものですが、この方、熊谷が空襲を受けたこの日にお生まれになったそうで、昨日が誕生日、日本の戦後の年数と同じ72歳というわけです。お生まれになったのは影森だそうで、お母さんが家に帰ってみると自宅が丸焼け、ショックでお乳も出ず、泣いてばかりいたそうです。

 私もよく知らなかったのですが、「熊谷空襲を忘れない市民の会」はホームページがあり、月一の定例会やそこで決まった行事の計画などが詳しく載っていますのでご紹介します。詳しいことはそちらをどうぞ。
 http://www.peace-kumagaya.org/

 本日のメッセージは以上です。以下はおまけの写真です。ご近所の玄関前のプランターです。
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 本日もお付き合いいただきありがとうございました。
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受け皿づくりが大事です! [おしらせ]


 今日は8月12日、日航機の墜落事故のあった日です。520人も亡くなられました。あれから32年経ちましたが、まだまだ気の重い日です。ご冥福とご遺族の方のご多幸をお祈りします。

 と昨日書き始めました。この事件、マスコミはもうまったく問題にしていないようですが、何かと謎が多く、どう書いたらよいやらと思案に暮れているうちに、夕方の用事の時間になり、そのまま、毎年恒例の花火大会見物に行ってしまいました。

 花火大会の件はまた後日に回すとして、日航機墜落事件の謎については、幸い majyo さんが取り上げてくださいましたので、そちらを参考にしてください。
 http://majyo1948.blog.so-net.ne.jp/2017-08-12

 この事件は謎が多く、真相がわからないままです。問題は、その国の体質が変わらぬままだということです。520人もの尊い命の犠牲を産み、世界最大の航空機単独事故だというのに、真相が解明されないままというのはどういう裏があるからなのか、裏の蓋が取れないうちは、真の民主主義、国民主権ではないということです。

 そんな状況で、アベ政権は、ますます裏を多くし、政治を闇の中にしまうために、特定秘密保護法を作り、「テロ等」を頭に冠して組織犯罪準備罪取締法を作り、国民の活動を委縮させる方向に急速に進んでいます。

 閣僚を数人入れ替え、前より思慮分別がありそうな内閣を組みましたが、それは、前がひど過ぎたからそう見えるだけです。本質はまったく変わっていません。あのような方向性を持つ総理大臣に国を任せておくことは百害あって一利なしです。

 では総理が代わればよいかと言えば、あの政治を一強として支えてきた自民、公明は最早、国民にとってまったく頼りにならない政党であることが判明してしまいました。

 アベ自公政権の後にどんな政権を作るか、そこに日本の将来がかかっています。つまり、受け皿です。受け皿ができなければ、自・公+アルファの政治が続くだけです。

 受け皿として都議選で飛躍を遂げた都民ファーストの会の延長線上に「日本ファーストの会」を若狭議員が立ち上げたことが注目されています。ここに、民主党を離党した細野議員が加わるのではないか、ここが受け皿になるのではないかとの期待もあるようです。

 しかし、脱アベならば、脱自民ならばよいというものではありません。我々は、民主主義や国民主権に反する、戦前回帰の国家主義政治が続くことを警戒しなければいけません。つまり、日本会議の主張に沿うような政治は、同じ穴のムジナなのです。

 つまり、受け皿なら何でもよいのではないのです。基本政策が大事なのです。そこを問わなければなりません。それをはっきりさせなければなりません。

 その一助となるように、まことに拙いながら立ち上げたサイトが「ポスト自公政権の受け皿に求めるもの」です。
 http://seiken-check.blog.so-net.ne.jp/

 このサイトが一助としての役割を果たすかどうかは、一重にその注目度にあります。今のところは残念ながら、注目度が高いとは言えません。このサイトの5分の1から、10分の1程度しかありません。

 是非とも、あちらのサイトにも足をお運びくださいますようお願い致します。またご意見、ご感想、アドバイスなどお聞かせください。

 今日のメッセージはそんな我田引水でした。

 以下はおまけの写真です。
 昨日は朝から曇天、時々小雨でしたが、2時ごろ薄日が出てきましたので蝉取りではなく蝉撮りにちょっと公園に出かけました。
 途中、例のサンジソウ、オシンソウともいうやつです。2時では丸い粒です。
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 電線に、たぶんヒヨドリです。
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 アブラゼミ見つけた。
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 二匹目もアブラゼミ
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 同じ蝉を真横から
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 オッ、ミンミンゼミを見つけた。と思って撮ったら、右側にアブラゼミもいました。
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 もう.一匹ミンミンゼミを捉えました。
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 本日は以上です。花火の写真はいいのが撮れているのかどうか、後日・・・
 お付き合いいただきありがとうございました。

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